本図にはどこか演劇やオペラの舞台美術そのリアルな自然描写から、どこか地中重苦しいほどに陰鬱で、不吉な喪の雰囲放3vol.154 令和7年7月1日発行加入者向広報〈共済だより〉イ コ ンボ ヘ ミ ア ンメランコリーフィレンツェにいたベックリーンの画室をある未亡人が訪れ、死別した夫を追悼する「夢想のための」絵を画家に求めました。発端からしてすでにミステリアス。暗く陰鬱な空を背景に、黒々とそそり立つ糸杉、それを包み込む岩山からなる人工的な島の印象。岩の壁面には墓室が虚ろな口を開けています。島へ向かう小舟のオールがさざ波を立て、そのかすかな音が深い静寂を際立たせています。小舟の上には漕ぎ手と、白衣をまとって彫像のように立つもう一人、その足元には白い布に覆われた棺が置かれています。ここから連想されるのはギリシア・ローマ神話にある、此岸から彼岸へと冥府の川(いわば三途の川)を渡って死者の魂を運ぶ小舟の話で、その船頭はカロンという名のむさくるしい姿の老人。水の流れは時の流れにもたとえられ、また小舟はときに旅路を、そして人生を象徴するとされます。海に実在する景観だろうと推測されてきましたが、特定されるには至っていません。これは画家の自然に対する卓越した観察力と複数の記憶をもとに構築された想像の産物、あるいはその雰囲気は夢の風景のようでもあります。さらに描かれている時代が古代のものなのか中世あたりなのか、いずれの文化に属するものかも定かではありません。つまり空間的にも時間的にも特定しがたい、そうした曖昧さがこの絵を一層謎めいたものにしています。なお本図よりもやや小ぶりで横長の板絵も制作されており、結局はそちらが依頼者の女性の手に渡りました(現在はNYのメトロポリタン美術館蔵)。 《死の島》は 1886 年までにさらに 3 つのヴァージョンが作られています。そのうち1883 年版は半世紀もの後にアドルフ・ヒトラーの所有となり、第二次世界大戦後は長らく行方不明となっていました(現在はベルリン美術館蔵)。その第 3 ヴァージョン以降、画面は本図よりも明るくなり、暗い背景から細部も見えてくるのですが、深い静寂と謎の雰囲気は幾分損なわれてしまったようです。気を濃厚に漂わせる《死の島》は、しかし大変な人気を博したのです。それは世紀末の偶像となって、版画や無数の複製画がドイツの教養ある市民家庭の客間や寝室を飾ったといいます。急激な時代の転換期となった 19 世紀末は、ロマン派を継承する象徴主義文学や美術が流行した時代でもあり、象徴派のモティーフには、憂るいは彼岸への憧憬、また廃墟や水にまつわる幻想的なイメージなども取り上げられており、それら象徴派のイメージの語彙はここに集約されています。その影響力はやがて音楽の世界にも及び、20 世紀に入るとラフマニノフが交響詩「死の島」を、第一次大戦の前夜にはマックス・レーガーが「死の島」を含む「ベックリーンによる 4 つの音詩」を作曲しています。を思わせるところがあります。とりわけ小舟の上でヴェール(=謎)に包まれた人物は幻想的かつドラマティックです。石化したように直立するその白い姿は、背景に林立する黒い糸杉の垂直性と対照をなしています。一方でこの人物は画家が同じ頃の作品に描いた、詩人ホメロスが歌う『オデュッセイア』の主人公、小島の岩の上に独り佇む海の浪者オデュッセウスの憂愁を帯びた後ろ姿とも響き合います。背を向けた人物像は顔が見えないだけ、鑑賞者はそこに自己の心理を自由に投影できます。そしてその人物と同化して風景画に、自然そのものに参入するのです。これは観る者を絵の中にいざなう詩的魔力を持った「夢想のための」絵なのです。愁、孤独、死、喪あ19世紀末が近づく 1880 年の春、当時
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