レター 2024年 春号
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主題はギリシア・ローマ神話の英雄ペルセウスの冒険の物語で、古代ローマの詩人オウィ3ディウスの『変身物語』の一節に依っています。ペルセウスは神々の助力を得て、その眼を見た者は石に変じてしまうという恐るべき怪物メドゥーサを退治したのち、翼の生えたサンダルを履いて空高く飛翔しました。やがてエチオピアの上空にさしかかった時、眼下の海辺で海獣の生け贄にえとして繋がれた美しい乙女を発見し、彼女に迫る巨大な海獣と戦い、これを倒してその乙女、エチオピア王の娘アンドロメダを解放して花嫁としました。 物語の叙述に適した横長の画面に、ペルセウスは3回描かれています。日本の絵巻物にも見られる、登場人物の連続した動作を一図で表わす異時同図法の一例です。軽やかに空中を飛翔する姿と、海獣の背の上で剣を揮ふるう戦士として、そして前景右側の群像の中では姫君と共に人々に祝福される姿で。ここでは、左側で姫君が生け贄に供されることになった悲嘆の情景が歓喜の場へと一変しています。鑑賞者の視線は、中景の右から左へ、そこから反転して前景左から右へと円環をなして導かれるのです。なお、英雄の怪物退治は世界の神話の普遍的なテーマの一つで、宗教画のジャンルにも影響を及ぼしており、戦士聖人ゲオルギウスのドラゴン退治と姫君の救出という物語がよく絵画化されています。 『美術家列伝』の中のピエロ・ディ・コジモの伝記で、著者ヴァザーリはこの画家のエキセントリック(奇矯)な性癖をつぶさに語っています。極端な孤独癖、獣のような野生的な暮らしぶり、制作に没頭するあまり一度に50もの卵を茹でて常食としていたこと、壁をじっと眺めながらそこに印された汚いしみの中に戦闘図や幻想の街などの風景を思い描いたこと。最後の壁のエピソードについては、彼とほぼ同時代人だった「万能の人」レオナルド・ダ・ヴィンチの手稿にも類似の記述が見られます。かの巨匠も壁に浮かぶ偶然のイメージを読みとる想像力を養うことを推奨しているのです。 他にも、この2人の画家には共通した偏愛に近い対象がありました。本図に描かれているような空想的な怪物です。ピエロは怪物の図を集めた画冊を作っていたとのこと。一方のレオナルドも翼をつけた爬虫類のようなグロテスクな合成動物を考案したり、奇怪な容貌の人物を記憶しておいてそれを素描にしています。すなわち醜悪さや珍奇なものに対する強い好奇心です。 今一度本図に戻ると、まず私たちの目を惹くものは物語の中心にいる英雄ペルセウスではなく、構図の中心にいる長大な牙に獣の頭部と大きなヒレを持った海獣でしょう。しかしその姿は案外、真の恐怖心や嫌悪感をかきたてないのです。本図がホラーにならず、お伽噺風の明るい幻想に浸されているのは、その風変わりにして魅力的な風景描写のためです。それはリアルに描かれているようであっても実景を写したものではない、どこか現実を離れた夢の世界の情景です。右上遠くに霞む白い峰はもしや白衣をまとった俯うつむく坐像のようには見えないでしょうか。これは、物語の前段で英雄が斬り落としたメドゥーサの生首を見て石化したという、巨人神アトラスの姿が山容に重ねられているのです。また、姫君の苦悩を共にするかのように奇妙にねじれた枯れた樹木の形なども、あるいはもとは彼が壁のしみに見出した想像力の産物だったのかもしれません。

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