手前の手すりの向こう側に、暗い背景から艶のない肌と乱れた髪、ごく質素な身なりの3ぐうい年老いた女性の上半身が浮かび上がり、彼女はもの問いたげにこちらをじっと見つめています。あるいは観る者に何かを語ろうとしているのか、その半ば開いた口には歯が欠けているのが分かります。そしてその目と表情には深い疲労と悲哀の色も宿しています。しゅう 現代イタリアの思想家で作家でもあるウンベルト・エーコの奇書『醜の歴史』に収められた数多くの図版のひとつに彼女の姿を見つけた時には、いささかの違和感を覚えたものです。それはそこに「醜」という言葉に含まれる強く否定的なイメージとは異質のものを感じたからです。 老女の右手には小さな紙片が握られ、それにはCOL TEMPO(時とともに)と記されており、彼女の指先はおずおずと己の胸に向けられています。するとこの絵は時の及ぼす不可避の力を表すもので、彼女は時間の概念を人の姿で表した、「時」の寓意像なのか。あるいはその老いの姿を通じて美のはかなさ、さらには生の虚しさを私たちに伝えようとしているのか。とはいえその個性的な表情には深みがあり、老女の確かな存在感は、たんに寓意像とはいえない、ある特定の人物が画家の前にいたことを想像させます。すなわちこれは寓意的な意味も帯びた肖像画ではないかと。 本図はジョルジョーネの作品中でもその主題や人物をめぐって今なお謎の多い名品《嵐》とともに、あるヴェネツィアの富裕なコレクターの所蔵であったことが知られています。そしてこれはジョルジョーネが彼の母親を描いたものだという古い記録も伝わっています。実の母親を、老いが冷酷に印された姿として、随分容赦のない仕方で描いたものだと驚く人もいるかもしれません。イタリア・ルネサンス絵画において1500年前後の数十年間は、肖像画が独立したジャンルとして確立され発展した時代でした。また、その世紀転換期にドイツの画家デューラーは二度にわたりヴェネツィアに滞在しています。彼の厳しいリアリズムはジョルジョーネを含むヴェネツィア派の画家たちに影響を及ぼしていますが、後年、そのデューラーにも母親像が、それも死の二か月前の姿を表した素描があるのです。そのドイツ人画家は、さまざまな老いの痕跡を直視しており、しかしそれは老醜というより、むしろ有限な生という人間存在の本質に迫っているようです。そしてそれと同じことがここで、ジョルジョーネの老女にも見られるのです。 一般に肖像画の特徴として、観る者を見返している画中の人物の視線があります。この老女は私たちに何を伝えようとしているのでしょう。でも、その視線の奥には老女を描いた画家の存在があります。語りかけてくるのはジョルジョーネなのだ、そのようにすら感じさせます。年老いて、枯れてさびた人間の顔には、その人の生きた過去のおびただしい時の痕跡が印されているものです。そこには宗教画や神話画のようなスケールの物語性はないかもしれませんが、人生という個人にとってかけがえのない物語があるのです。1点の優れた肖像画はひとつの伝記だと言った詩人もいます。しかしながら、この絵の作者自身の伝記的事柄はほとんど分かっていません。10年ほどの充実した創作活動ののち、ジョルジョーネはヴェネツィアでペストが流行した時に唐突にその短い生涯を終えました。まだ30代はじめだったはずです。
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