レター 2022年 秋号
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暗い背景から静かに浮かび上がってくるのは、豪奢な真珠の胸飾りをつけて玉座に就く3貴婦人の姿。それは動きが止まった一瞬で、視線は何かを探し求めるかのように虚空をさまよい、また何かに耳をすませる様子。彼女の名はサラ。当時28歳の人気女優シドンズ夫人で、ロンドンの演劇界において悲劇役者としての名声を得たのは、まだ人々の記憶に新しいところでした。まるで舞台を見ているようなこの印象的なポーズは、レノルズの画室に現れた夫人が即興的にとったものだと伝えられています。「これでいかが?」しかし、実際には画家は慎重に構想を練っていたことでしょう。ミケランジェロがシスティナ礼拝堂の天井画に描いた預言者の姿勢や、古典絵画・彫刻の類も参照しています。これはありのままの肖像画ではありません。画家は彼女をギリシア神話の諸学芸の女神たちの一人、悲劇をつかさどるメルポメネーになぞらえて描いています。それは一種の「見立て」、つまり悲劇の女優を悲劇の女ミューズ神として表すという着想なのですが、その一瞬のポーズはシドンズ夫人自身が悲劇の女神から霊インスピレーション感を授けられる場面と解することができます。生身の女性サラ、舞台のヒロイン、あるいは女神、三つのイメージが重なり合っているようでもあります。彼女の背後の暗がりになかば溶け込んだ二つの人影は、向かって左に「憐れみ」と、右に「怖れ」の擬人像。これは悲劇の本質とは、観る者に憐れみと怖れをよび起こして、それらの感情の浄カタルシス化を達成することにあるとする、アリストテレスの『詩学』の言葉を表したものです。なお、画家はこの毒盃を持つ怖れの凄みのある表情を、自ら鏡の前で作ったといわれています。一般的に肖像画にはその対象であるモデルに姿形が似ていること、肖しょうじせい似性が求められるものですが、時にはそうした外面的な特徴を超えるものも問題とされます。20代後半の若き日に大陸を旅して、ミケランジェロをはじめとするイタリアの古典絵画の洗礼を受けたレノルズは、巨匠たちが遺した壮大な歴史画を範として、肖像画にも人物の偉大さ、威厳、又は崇高さが表現されるべきだと考えました。この画家がしばしば本図のようにモデルを神話の英雄や女神の姿になぞらえて描いたのは、その考えの一端を示すものです。それによって彼の肖像画は、そのモデル=顧客である上流人士たちの自尊心を捉え、大きな成功を収めたのです。18世紀半ばに始まる英国絵画の黄金時代の第一章を開いたのは歴史画ではなく肖像画の分野で、ここに優れた才能を輩出しました。その一人、レノルズの同時代人でライバルだったゲーンズバラもシドンズ夫人を描いています。18世紀末頃までには無数の彼女の肖像が描かれ、版画化もされて流通しました。レノルズがこの女優を悲劇の女神として表したことは、まだポスターが十分に普及していなかった時代に彼女のイメージを浸透させる絶好の宣伝効果ともなったはずです。余談になりますが、1950年のアメリカ映画「イヴの総すべて」には、サラ・シドンズ賞なるものの授与式が描かれており、そのトロフィーにはまさしく本図を立体化した彫像が使われていました。物語が往年の名女優を利用してスターへの階段を駆け上る娘を中心にした演劇界の内幕物というところはいささか皮肉ですが。ジョシュア・レノルズ Sir Joshua Reynolds(1723~92年)英国絵画史上最高の肖像画家と目される。1768年のロイヤル・アカデミー(王立美術院)の創立に参画し初代院長となった。新古典主義者として長く主導的な立場にあり、画家の地位を高める点でも功績があった。アカデミーでの20余年にわたる「美術講義」は出版され、各国でも翻訳が相次いだ。貴族や名流の夫人を神話の登場人物になぞらえた肖像画を本領としながら、幼い子供の肖像にも定評があった。

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