レター 2022年 夏号
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重量感のある石造りのアーチ型の開口部が、観る者の視線をその奥の薄暗い内部へと誘2vol.70Saint Jerome in his Studyい込みます。むろんこのアーチも「騙し絵」風に描かれたものですが、現実空間と絵画空間を曖昧にする効果を果たしており、まるで芝居の幕が上がった瞬間のようです。どこか舞台を思わせるオープンな書斎のしつらえ、そこでは柔らかな光を浴びて、読書する赤衣の主人公の側プロフィール面像がおごそかに浮かび上がります。彼は西暦4世紀半ばに生まれた聖ヒエロニムス。キリスト生誕の地、パレスティナのベツレヘムに修道院を興し、ラテン語訳聖書の標準版(ウルガタ版)を作った教会博士として知られています。絵画では、若き日にシリアの砂漠で十字架像を前に、悔かい悛しゅん者としてわが胸を石で打つ烈しい姿とともに、後年にベツレヘムの書斎で静かに読書する本図のような、およそ対照的ともいえる二つのタイプの図像がよく知られています。画家はごく小型の画面に驚くべき細密描写を駆使して、眼に入ったもののすべてを細大もらさず描き込んだかのようです。机の上や背後の棚には開かれたままの、あるいは積み重ねられた書物が箱や壺と混ざって置かれています。側面には布が何気なく掛けられ、その下には猫が置物のようにうずくまる。書斎のどの部分を切り取ってみてもそれだけで見事な静物画になります。この精せい緻ちな表現は、画家アントネッロが北方フランドル絵画から学びとった油彩画の技法の賜物です。かつて本図はその油彩画の技法を完成させた北方の巨匠ヤン・ファン・エイクの作と伝えられたこともありました。静物画風な数々のモチーフに囲まれて見逃してはならないのは、聖人の座る椅子の背後にさりげなく置かれた縁の広い赤い枢すう機き卿きょうの帽子、これはこの聖人の時代にはまだ用いられていなかったのですが、伝承に基づくヒエロニムスを指し示す重要な徴しるしとされています。もう一つの決定的な徴は書斎の右手奥から静かに歩み寄るライオンの姿。中世の聖人伝を集成した「黄金伝説」によれば、あるとき修道院に傷ついたライオンが現れ、聖人がその脚に刺さった棘を抜いてやると、以後この猛獣は修道院に居着いたということ。ヒエロニムスにはなくてはならない象徴動物なのですが、画家は実に控えめに、そしていくらか夢の中をさまよう獣のようにこれを表現しています。さらにシンボルとしては、書斎の手前の敷居のところに二羽の鳥。山うずらは、子が親を鳴き声で見分けるというところから「神の霊感」や「真理」を、孔雀は死んでもその肉が腐敗しないという言い伝えから「不死性」を表すものとされています。遠景、薄暗い堂内から明るい陽光に満ちた風景を覗かせるというのもフランドル絵画に見られる手法です。連なる緑の山並みと城塞のような街、川に浮かぶ小舟、騎行する人。書斎の真上の窓の縁に止まり、あるいは深い青空を舞う数羽の小鳥、それは無限と自由と憧れを感じさせます。本図は宗教画に属しますが、肖像画、静物画、風景画そして日常的な風俗画の要素さえ併せ持っています。陰影を作りながら書斎全体を浸す精妙な光、聖人の読書を妨げるもののない静謐の空間、その柔らかなトーン、約5世紀半を経てなお、幸福な調ハーモニー和が奇跡的にもここに息づいています。この「読む人」の理想的な姿は、静せい謐ひつではあっても孤独ではありません。書斎の聖ヒエロニムス

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